命日

今日は父の命日。

実家に行って仏前でお経をあげてきました。

もう、父と別れて25年が経ちます。
あの日も今日のように暑い暑い1日でした。
まだまだ若かった私は
父の寿命が近いことを母から聞かされても
理解しませんでした。
母から打ち上げられた数日後の朝、
家の電話がなり、母が緊張した面持ちで
返事をしているのを聞いて
足がすくみ、歯磨きしている手が震えました。
電話は病院から。急いで駆けつけるも
病院の父はもう何も反応しない状態でした。
最後に別れた時は笑顔で見送ってくれたのに。
父親っ子だったので、その日
近くに戻ってきた遺体の肩を枕にして
私は一晩中離れませんでした。
眠っていると、温かい手が脚を撫でてくれます。
私が浮腫んだ父の脚にしてあげたような
感覚で、それが父の手だと分かりました。
その手の感覚が失われるのも怖く、
目を開けるのも怖く
目を閉じたまま泣いていました。
厳しく、美しいものが大好きだった
父は「だらしない」ことが
何よりも嫌いで、話し方、歩き方、食べ方
生き方、全てに凛とした姿を求めました。
私にも多分にその考え方は残っていると
思いますが、以前とは違い
「父だったら何を選択するか?」を
追い求めるのではなく、
私は何を選択するか、が決められるように
なりました。
厳しい親に育てられることは
ある意味支配されることであり
過保護です。
何歳になっても親の意見や生き方を
軸に生きることで人生の大半を
過ごす方が多い世の中です。
私にはそれが羨ましいことにも
感じられます。
でも、私も、私の父もそれは選びませんでした。
父の役割を終え、この世から旅立ち
私は自分の人生を自分で決めて生きることを
選びました。
親からの心理的な自立は大変な
エネルギーを要しますが
それが、人の与えられた命、使命、身体、心を
もっとも光ある姿にさせる生き方です。
また、その過程がヒーリング、癒しです。
心、身体、人生を解放すること。
その光を得るために
人は命を宿しているのではないかな、と
今日はゆっくり命の意味を考えていました。